花が帰す

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最高純度のピンクだった。

stage
「帰」という漢字がある。元いた場所とかあるべき場所に戻ることという意味合いで広く使われている気がする。「帰る」とか。

「ターン」って小説を読んでいたら出てきたんだけど、「帰嫁」という言葉があるように、「帰」には嫁ぐという意味合いがあるらしい。漢文にも「之子于帰」のように嫁ぐという意味で帰が使われてる。

これは漢字の成り立ちから来ていて、文字の右側の下の部分が箒を意味してて、上の部分が手を意味している。女性が嫁いで箒を持って家事をしている姿はあるべき形に落ち着いたという感じらしい。だから、昔の女性は離婚するとバチクソ怒られが発生したとのこと。

そんな意味合いで女性の役割は云々とかそんな話を展開されたらたまったもんじゃないけど、ただ、ここだ!と思える帰る場所が見つかると本当にいいよね。長い年月を生きてここに戻りたいなと確信できる瞬間が。 それは人でも良いし、場所でも良い。それこそ、時間でも良い。自分がフィットする場所を見つけられるのならこれほど喜ばしいことはない。

今日という日はそんなことを思いながら過ごした。

こういう成り立ちを調べるとき、やっぱ紙の辞書ほしいよねーと思ってしまう。

起きて

お昼前。今日は書類を印刷したり、確認したり。 家でご飯を食べてから川崎へと向かった。

アクリル人間

なんかアクリルスタンドのことを「アクリル人間」っていう人がいる話がTwitterに流れてきてウケてた。違国日記に出てきた「物語を必要としない人」っぽい。俺もそんな人間になりてー。

名取さな

誕生日会に行った。今年のイベント名は「さなのばくたん。-メチャ・ハッピー・ショー-」とのこと。

早めに着いて物販に買いに行く。今年もちゃんと買えてよかった。

チネチッタの周りにはライブを見に来たと思しき人たちが集まっている。名取さなパーカーを着ている人が多くて一瞬で分かる。「ファン同士の馴れ合い禁止!」を標語にしているんだけど、会場の入り口でせんせえ達がなんかグループを作って、お互いにスマホを見せあってオフ会してない??

私は知り合いがいないし、こういうイベントを通して交流(インターネットで俺の人間性を包んだところで本質は何も隠せてないぜ!)とかもしないので。 そもそも、インターネットは一人になりたくてやっているという一面も少なからずある。そういう話はまた今度。

でも、いつも言ってることだけど、VTuberとかの配信を見ていると「皆自分が見たいものだけ見ているようで、同じものを見ている誰かを探しているのかもしれない。」みたいなことが普遍的に起きているなと思う。

会場に入ったら私の送った花がエスカレーター登った最初のところにあった。

とても綺麗だった。 ここ数日は送るための花についてデザイナーの方とチャットでずっとやり取りをしていた。こんな感じの花をお願いします!って言って昔、配信で作っていたケーキをモチーフに作ってもらった。 ずっと体調が悪かったので、下痢気味になりながらチャットを書いてた。

flower2
flower3

ちょっと二段目の横の花が倒れていたけど、写真は貼らなくていいかな。日記は書きたいことだけ書く場所だから。

人に花を送るという経験を今までの人生でほとんど積まずに今日まで生き延びてしまったのが尾を引いてる。幼稚園生の時、退職する先生に花を送ったのが最後だ。確か、そのときは粘土のペンダントも一緒に送ったんだけど、何か上手く作れなくて当日、俺だけ号泣しながら先生に渡していた気がする。先生も泣いてるし、俺もめちゃくちゃに泣いていた。だから、どうしても花を送る事に対して苦手意識があったのだと思う。幼少期の自我は柔らかく、形はいくらでも変幻する。それこそ一度受けた衝撃を後世忘れられないように。

話がそれた。何も考えずに文章を書くからいつも脱線する。筆が止まる度にトイレに行き、不注意から小指をぶつける。お終いよね。

あまりこういったイベントの経験がなくて、昨年のイベントでたくさん花が置いてあってびっくりしたのを覚えている。それで来年送れたらいいなーと思い、今日に至るって感じ。

思えば、この一年間はずっと良く分からないまま、全てが進んでいたように思う。ずっと研究をやっていたような気もするし、ナーンもやっていないような気もする。研究の限界というか卒業までの日数が少なくなっていき、そこから研究の進められる進捗の量を考えて「ここまでかな」とわかった瞬間、消化試合みたいになってしまった。

研究をやっていたというのに、実感としてはナーンもやっていないというのはなんとも不思議な感覚だけど、大学四年間は体系だった学問について勉強をしていたのに比べて、大学院の二年間は未知のテーマに対してリサーチし、常に発表や論文執筆を通して結果を出すことを求められていたので、何かを学んだという実感が薄いんよね。

だから、修論を提出したことに達成感とかって本当にないんです。ただ、終わったんだなというそれだけ。

でも、一年の最後に花が送れたのなら、全部チャラ。それだけの話。

昔は会場に入って色んな花の写真を撮ってたような気がするけど、今年はそんなに撮ってない。来年に向けて参考にするぐらいかな。他の人がどんな花を送ったかはそんな気にしてなくて、自分がどんな花を送るのか、その事だけを考えていたし、ずっと見ていた。 そういう意味で花を送れたという時点で、何かが完成したんだなと思う。私の中で。

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stand

ココだけの話なんだけど、最初花の上の部分が倒れていて、かなり焦った。ケーキ型だとかさ増しするために二段にしてるんだけど、その箇所が横に倒れてるジャーン。スタッフに言って手で直した。

flower1

スタート

お誕生日会が始まった。

最初の曲は「青空のラプソディ」。

song1
ダンスが上達したというか、パフォーマンスが本当に良くなった。すごい。

続けて、エッビーナースデイ。昨年の誕生日イベントで披露された曲で今でも彼女が2020年にオフラインライブが中止になった後、もう一度ステージに立って2021年のお誕生日会を開いた時のことを思い出す。

今年は「今までの衣装を着た名取さなが新衣装を着た名取さなのライブを乗っ取る」という形で、名取さなが様々な衣装に着替えつつトークやライブが展開されていた。

ずっと忙しくて、久しく名取さなの配信をリアタイ出来ていなかったけど、視聴者とプロレスをしつつ、トークをするという進め方が俺に忘れていた全部を思い出させてくれた。嘘じゃない。

ところどころアクシデントで声が途切れるところがあり、かなりハラハラした。少なからず、前に立つ怖さというのを知っているので、スタッフや本人に思いを馳せながら胃を痛めていたが、持ち前のアドリブ力で場を繋ぎつつ、解決してたのは本当にすごいと思う。

相も変わらず、今年もサイリウムを持っておらず、ライブ中はずっと手を叩いてた私ではあるが、悲しむことはない。

ペンライトやサイリウムは精々、ボタンを押すことで選べる程度の有限の光しか出せないが、手を叩いて音を出すというのは空間に対する音のインパルス入力であり、これは周波数領域で見る(理想的なインパルス入力と仮定する)と無限の周波数を含んでいる音なのだ。つまり、俺や君たちが届けたいと思っている音は全て「手を叩く」という行為の中に内包されている。だから自信を持って手を叩いて音を届けてほしい。サイリウムから出される色は光の速さで伝わる。音の速度は光よりはるかに遅いけれども、この無限の周波数が含まれている音を出している今この瞬間なら、光にだって手が届く。そう私は確信している。

新曲のモンダイナイトリッパーの軽快なトラックと名取さなの声はとても合っているように思えて、かなりお気に入りだった。

逆にだじゃれくりえぃしょんは全編を通してやりたい放題なところがとても好き。最後は足元が消えて退場するし。そんなことある?

アマカミサマも好きだな。ゲーセンで何度もプレイしたし、思い出深い曲です。

song6

メチャ・ハッピー・ショーの「もらったものが多すぎて返しきれないんだ」というリリックにかなりドキッとしてしまった。僕としてはすでにもらうものは全部もらっている(だからこそ、この何年かを走り抜けられたみたいなところがある)が、名取さな自身が気負い過ぎてないか心配になった。背負い込まなくて良い重荷を背負ってしまっているならそんな必要ないよ!と叫ぶけど、向上心というかポジティブなエネルギーに昇華できるなら私は応援したい。

リスペクトがあるからこうやってできるという話なのかもしれない。

song2

アンコールのあとはさなのおうた。この曲で全部が始まってここまで来たのだし、ラストにふさわしい曲だと思う。

song3

song4
song5

写真撮影がOKとのことで写真をよく撮っていた。昔の自分なら「写真で覚えるんじゃなくて、心で覚えるものだぜ!」みたいなことを言ってたかもだけど、忘れたくないと思っていたことも少しずつ忘れていく自分を見てやっぱり写真を撮ることにした。 形のあるものは壊れるし、形のないものは忘れられる。だから、忘れられないように写真を撮ったり、壊れないように目に焼き付けるのかもしれない。この文章も千年は余裕で壊れない。そうだと嬉しい。

終わり

リゼ・へルエスタのアナウンスでお誕生日会は終わりを告げた。そそくさと帰る。エモーションを体現したくて、口から白い息を吐き出そうとするも、特にそんなものは出なかった。春が近づいてる。

この一年間、色々あったけどこの瞬間に立ち返ることができて本当に良かったと思う。生配信を追えない、逐一Twitterも見てない、せんせえらしいことが出来ていたか甚だ疑問ではあったが、それでも今日という誕生日を花を送って祝えたから、僕もせんせえってやつの末席座っていいですか?

ライブ会場では色んな人がいた。全身に名取さなのグッズを身に着けている人、名取さなTシャツや名取パーカーを着て髪もピンクに染めている人。CINE9で隣りに座っている人はバックに名取さなの缶バッジをつけてジャラジャラしていて、俺はそういったファンになれそうもないなと思った。

昔はそうだったかもしれないけど、生活やライフスタイルの変化だったり、やりたいことを見つけるとそうではいられない。 人生のステージや方向性を定めて、進んでいくというのはこれまでの人間関係や環境を少しずつ変えていくことでしか実現できないと思う。 私には私の生活があり、やりたいと選んだことがある以上、100%配信にフルコミットはできない。 ヒカルの碁でヒカルが次のステージに進むために、部活動から離れて院生になったように。 そして、私はすでに人生の踏切のレバーを倒してしまっている。

だから、そういう意味では名取さなと同じものについて語っていくことは少しずつ難しくなっていくだろうなと思った。事実、新曲の発表のとき、作曲は〇〇と言われても俺はよく分かってなかったし、イベントの情報も遅れて確認していたし。

けれど、それでも良いのだと確信を持って言える。名取さなは配信者として丁寧なインターネット生活を歩んでいくし、私は私の生活や為すべきことに取り組んでいく。やり方もやる事も違うだろうけど、どこかで走り続けているという事はちゃんと確認できる。見てるものは違うけれど、見ている方角はきっと同じでそこに向かっていく。それがとても嬉しい。

走るといえば、以前こんなことがあった。私は今でも走っています。

もちろん、同じ話題を共有するのが困難になるのはもちろん悲しい。確かに、「絆」という言葉には「きず」の2文字が含まれているけれど、その向こうできっとこの場所に戻ってこれると信じている。一年の時を経て、この会場に花が帰ってくるように。私の名前にも「はな」の字が入ってるし、そういうこと。