ウルトラの星に祈りを込めて

起きて

仕事をする。今日はウルトラマンを見に行くので、仕事を早めに終えたい気持ちに。が、そんなことはなかったぜ!(なんかダラダラしてた。)

ウルトラマン

初めてウルトラマンを見たのはこことは違うどっかの国の夏の日だった。上海の団地みたいな感じのマンションの6階の、ビデオテープの山が積まれた、テレビが窓脇に置かれている部屋で。俺は窓から射し込む陽射しばかりが目立つ部屋でアイスクリームを片手に持ちながら、い草の束みたいなやつが敷かれた地面に座り、ずっとビデオテープを食わせたブラウン管の映し出した垂直同期信号と水平同期信号の織りなす、ところどころノイズが走るけれど何よりも面白い映像を見つめていた。

あの頃は本当にやることがなくて、一個のカセットに何十個もゲームが入ってる、今思うとかなりアングラなやつだったんじゃないか?という感じのファミコンで遊ぶか、外に出て遊びながら焼け死ぬか、見飽きた西遊記を見るか、ウルトラマンを見るかの4択だった。上海の夏は暑い。湿気がないから皆焼き焦げるし、公園で上裸のおじさんがたかるハエを払いながらスイカを売っていて、子供は売り物のスイカの種を飛ばしながら食べていた。俺は泣いた。

家にいる叔母は一日中ニートしてるし、祖父母も付きっきりで相手できるわけではないし、従姉の姉は学校、叔父は仕事だったから、一人遊び以外しようがなかった。 中国は年に数本しか海外の映画が上映されない。厳しい検閲のためだ。だから、中国にいた頃、映画を見た記憶はほとんどない。でも、バラエティ番組では見れないはずの007のBGMが流れたりしているので本当に色々ガバガバだったと思う。後、当時台湾版イケメンパラダイスに姉がハマっていて、それを少し見たぐらいかな。

そういえば、叔父は本物の男だった。自宅ではいつも上裸だったし、料理をするときもエアコンのついた部屋で寝るときも上裸だった。そんな叔父も原付に乗って仕事に行くときだけは服を着ていた。ウルトラマンの捜査員たちもなんかユニフォームを着てたし、服にはなにか力があるんだなと子供心に思った。 毎回長い文章を書くたびに脱線する。推敲せずに文章書いてるからこうなる。しかし、上海の記憶には上裸中年男性がいつもそばにいた。仕方のないことだ。 話をウルトラマンに戻そう。いや、上裸男性の話をしたくないわけじゃない。いや、したいが、今するべきじゃない。

そんなわけなので、家ではもっぱらウルトラマンを見ていた。自宅にあったのはなにかの録画らしく、主に帰マン、エース、タロウ、レオ、80あたりの作品がランダムに録画されていたのでそれを見ていた。全部中国語で吹き替えされていたから正直何を言ってるか分からないシーンも多かったけど、それでも見てるだけで違う国に連れて行ってくれる友人のように感じられた。

それに中国語も学ぶことができた。よく主人公が「ツォスゥン!」と言うので、真似して家族の前で言ったら「そんな汚い言葉を使うな!」と怒られて俺は泣いた。どうやら、「クソったれ!」という意味らしい。イマドキの子が海外のFPSで口汚い英語を覚えるのと全く同じ構図だ。俺も英語のリスニングがてら海外配信者の配信を聞いて悪い英語を覚えてる。20年前から何も成長してない。

人間模様も好きだった。TACは職場環境最悪だなと子供心に思ったし、エースで合体して変身するさまを見てカップリングの原体験を得られたし、80で遠い生まれた国の学園モノに見入ってた。あれが萌えだったんだと思う。 タロウの朗らかな物語にはいつもニコニコしていたし、レオの話は厳しく人の生きようとする活力があって、言葉もよく分からない国で一人遊びをしている自分は勇気づけられていたのだと思う。俺は今でも人間大の宇宙人が走ってくるシーンが怖いです。

思えばウルトラマンとの思い出は圧倒的に夏が多い。上海が暑すぎて、夏の記憶しか残ってないという記憶の美化もそうだし、ウルトラマンコスモスVSジャスティスもちょうど8月の俺の誕生日に公開開始になって母と池袋だか、上野だかに見に行った。

日本に戻ってきてからはコスモスだったり、ネクサスやメビウスを見ていた。いつも朝起きるのに失敗していて、祖父にテレビの録画を頼んでいたことを思い出した。

そんなウルトラマンも少年から青年に移り変わっていく中で少しずつ見る機会は減っていった。それは忙しくなったからであり、興味関心が薄れていったためでもあると思う。違う国に連れて行ってくれる友人はその役割を果たして眠りについてしまったようだ。そして、俺も知らないうちに体の何処かがとても眠たくなってしまったのだと思う。

そんなある日、なんでもシン・ウルトラマンなる映画が公開されるという話を聞いた。なにか決着をつけないといけないようなそんな気持ちがあって見に行った。

嘘、なんかドラマチックに書いてるけど、夕飯作りに気を取られて3分ぐらい遅刻して劇場に入ったわ。(最悪…)

今回のウルトラマンは庵野秀明が脚本として参加している。ゴジラに続く「シン・」シリーズだ。さすがは庵野さんだ。シン・ゴジラで勝ち取った実績を引っさげてきた。だから今回のウルトラマンにはカラータイマーもなければ予算の制限もない。本当にやりたい放題だ。

今回のウルトラマンはとにかくリアルを描こうとしているのが伝わってくる。既存のウルトラマンでは見られなかった、書類と戦う捜査員や内閣との政治的取引、生きる我々が大人になるにあたって知ってしまった現実の世界の話がふんだんに盛り込まれている。

最初にこの映画を見た印象は何より速いということだ。ファイトクラブ?を彷彿させる(あれも相当速い)ような詰め込みで最初の20分ぐらいで世界観、怪獣の襲来、ウルトラマンの動機などをすべて説明した。神永の命を最小限に軽くすることでこの速度の生み出したのだ。(「自分は」とかしか喋ってないだろ…

銀色のウルトラマンが神永と命をシェアする。命のシェアリングって自転車のシェアリングみたいでかなりSDGsだなとよく分からない感想を浮かべながら見ていた。中国語吹き替えのウルトラマンタロウや帰ってきたウルトラマンを上海で見たときもこんなシーンあったわ。思い出した思い出した。

命を共有した段階でウルトラマンの体は赤くなり、「あの赤さは人間の血の表象なんだな」とフンフン考えながら見ていたが、その後緑になっていたり、よく分からなかったのでそのままスルーした。

今回のウルトラマンでは昔のウルトラマン作品の要素が各所に散りばめられている。初代ウルトラマンもセブンも見ていないので、知ってるものは少ないがそれでも戦闘BGMがエースの戦闘BGMのアレンジだという事が分かった瞬間に忘れていた全部を思い出した。そういえば、中国語吹き替えとはいえどもOPだけは日本語音声そのままだったので、俺も意味がわからないまま、「宇宙にきらめくエメラルドー」と歌っていた。日本語はウルトラマンで学んだかもしれん。

中国語の吹き替えを当時見てるときは全然違和感はなかったように思う。中国語で喋りだすヤプールが怖くて泣いたし、ヒッポリト星人によって墨だらけで真っ黒にされたウルトラマンを見てもう一度泣いた。そこらへんの話は祖父にもらったおもちゃの銃みたいなやつをぎゅっと握りしめながら見ていた。やけに尻に刺さるい草が痛かったのを今思い出した。後、上海ではなんか水不足でいつもでかい瓶に水を貯めていたことも思い出した。こうやってまた話がそれる。

今回のウルトラマンはバディものと銘打ってあるが、いわゆる映画のバディものらしい表現はあまりなかったのが特徴的だと思う。禍特対の皆と面と向かってウルトラマンが対話するシーンは少ないし(というかだいたい失踪していたり、捕まったり、単独行動をしている時間のほうが長い)、多分電車で一緒に移動していたら気まずい雰囲気が出てお互い黙ってしまうだろう。 そういう意味で見るとウルトラマンは山本耕史演じるメフィラスとのほうがよっぽど、バディらしいことをしている。公園や居酒屋で対話を行い、意見を交換しながら破局して最後には殴りあう。河川敷でありそうな真剣なコミュニケーションだ。

それでも、今回の映画は友情モノだとはっきり言えるのはお互いが違うバックグランドや生き方や寿命を持ち、全く違う生き物である禍特対の皆とウルトラマンが不器用ながらどうにかコミュニケーションを取り、共に問題に立ち向かっていくからだ。 最初は神永の自己犠牲の精神が不可解に思えたところから始めた交流。その中で人の良いところも悪いところも知り、それでも、人を守ろうと決断する。禍特対の皆もウルトラマンの自分たちとは違う思考や価値観に混乱しながらも、それでも信じて行動する。これが愛やね。俺初めてみたよ、恫喝してくる相手に人類を滅ぼすことなんて簡単にできるみたいに言うウルトラマン。

それに神永と命をシェアしたウルトラマンは、最初に広辞苑を読んで次に「野生の思考」を読み出しているところがポイントだ。さっと概要を見たところ、元来、西欧文化圏の人間が未開人に対して抱いてた「野蛮な偏見」に対し、人類学のデータの広い渉猟とその科学的検討を用いて、決して彼らの思考は無秩序でも混乱してるものではなく、我々と同じ精神の中から発現しているということを書いてるみたいだ。ウルトラマンは最初から人間を下等な未開人としてではなく、対等な生命体として扱っていることがわかるシーンっちゅうことやね。今度読んでみようかな。

野生の思考 | みすず書房

そんなこんなで物語は佳境に入り、ゼットンとの戦いに入る。ゼットンといえば最強怪獣だ。初代は見たことがなくてもその強さはよく知ってるし、メビウスでも大暴れしててハラハラしながら見てた。怪獣のカプセルで遊ぶのはやめたほうが良い。

昔、母に連れられて不動産屋によく行ってた頃、子供の遊び場みたいなスペースがあり、そこのPS2で「ウルトラマン ファイティングエボリューション2」(以降、FE2と略す)をよく遊んでいた。ストーリーモードのラストではウルトラマンからレオまでの6人を操作し、襲いかかるゼットンから基地を守りつつ、立ち向かうという熱い展開があった。このゼットンが馬鹿みたいに強く、ローキック一発でHPの3割が消えるし、いくら殴っても全然HPが減らない。カス。だから、次々とウルトラマンが倒されていくので、俺は歯をギリギリさせて色んな技を駆使しながらウルトラマンとともに戦っていた。両親は不動産探しの戦いをしていたが、俺には俺の戦いがあった。

俺はセブンを使って小細工みたいな攻撃でフラフラゲージ(FE2では弱攻撃を当ててフラフラゲージを貯め、ふっとばし技で相手をふっとばすとそのフラフラゲージ量に相当する必殺技が出せるようになる)を貯め、即座にふっ飛ばしてはエメリウム光線を撃っていた。他の必殺技はフラフラゲージを6割以上貯めないと撃てないが、エメリウム光線は火力が低い代わりにフラフラゲージを2割ぐらい貯めればすぐさま撃てるので、大変重宝していた。いまでもセブンといえばエメリウム光線のイメージがある。

小細工というのは大体の場合においてパワープレイに破壊されるもので、俺も例にもれず、ゼットンに破壊されていく。いやだっておかしいだろ。削る量。理不尽な耐久値のゲームはフロムとかでもいっぱい遭遇することになるが、当時の小学生の僕にとってはゼットンが本当に強かった。

気になった人(7月10日にこの記事を書いてるが、果たしてここまでのバックナンバーを振り返りながら読んでいる人がいるのだろうかという気持ちはさておき。)がいたら、この動画を見てもらうと分かりやすい。どう考えても火力と耐久がおかしい。この動画の人はかなりうまく戦ってるが、何かがおかしい事はわかってもらえるだろう。

ちなみにウルトラ兄弟が全滅するとゾフィーが助けに来てくれる。こいつが戦ってるときだけ、異常な削りがなくなり、まともに戦えるようになる。本当に頼もしかった。まぁ、今回の映画ではゾフィー改めゾーフィーがゼットンを送り込んでくるわけだけど…

ゼットンの一兆度の火球といえば、空想科学読本でもおなじみのもので、あの炎があれば太陽系がヤバイというのを子供心にキャッキャしながら見ていたが、今度のシン・ウルトラマンでは本当に太陽系を焼き尽くす一兆度の火球を連れてきた。本当にやりやがった…!という称賛の気持ちと本当にどうなっちゃうんだ…という気持ちでハラハラしながら見守っていた。 40年前の放送では窓が数個壊れるだけで済んだが、今度はそうはいかないだろう。今度のウルトラマンは制限がないとは上でも述べたが、まさか予算の制限やカラータイマーがないだけでなく、一兆度の炎にも制限がないなんて…

果敢にもウルトラマンは挑むものの、為すすべなく撃墜されてしまう。そして、ウルトラマンが神様ではなく、一個の生命体でしかないことを人類は痛感しつつ、お通夜ムードに突入する。そりゃ頭の上に一兆度の火球が生成されつつあったらねぇ… 後、ウルトラマンが宇宙空間をくるくる回るシーンを見ながら子供の頃、ウルトラマンの飛行シーンがなんかソフビをくるくるさせたり糸で釣って動かしていたのを見てキャッキャしてたのを思い出した。ヒッポリト星人も大喜びでエースのフィギュアをくるくるさせてることでしょう。

ここのウルトラマンが果敢に立ち向かうシーン、お前の分かってなかった自己犠牲をしてでも立ち向かうってやつじゃないのか?ウルトラマン、お前人間の事分からないみたいな感じだけど、君だって同じなんだ。まだ、人間との交流経験が短いから理解できないかもしれないが、君だって同じなんだよ。

だけど、また半荘を最初から始めれば、みんな帰ってくるんだよ。ドラも、阿知賀こども麻雀クラブのメンバーも。きみだってそうなんだ、玄。まだ小さいから理解できないかもしれないが、きみだって同じなんだよ

禍特対の中にも重苦しい雰囲気が出る中、やっぱり一番光っているのは滝明久だろう。滝明久は自分たちに出来ることなんてないと半ば逃げ出す形で捜査部屋から飛び出してやけ酒をしてしまう。今回の映画で俺が一番好きなキャラクターはこの滝明久だ。

滝明久は微粒子物理学者で口が軽いこと以外は一流の学者だ。アカデミックの世界に少しばかり身を置いて分かった。あの若さでPhDを取り、国を揺るがす禍威獣対策のために数ある学者の中から選ばれて研究機関から出向するの、どう考えても天才の部類だろう。少なくとも准教授以上のポジションでしょ?下手すりゃ教授だ。その若さで???

誰よりも聡い彼だからこそ、ベータシステムなどの進んだ科学力とゼットンや他の化け物たちの暴力を目の当たりにして、人類では外星人には敵わないことが分かるのだ。 そんな彼にウルトラマンはベータシステムの理論を現代の人間に分かるように記述した論文のデータを渡し、対抗策を考えてほしいと思いを託す。信頼もすごいし、現代の言葉に翻訳するのもすごい。お前が一番のDeepL翻訳だよ。 論文をちらっと見たけど、体裁はかなり論文として真っ当な感じである。ホンモノの物理学の教授が監修しているだけのことはある。ちなみに俺はこのシーンを見て学生時代のPTSDがちょっと出てきた。これ、訳の分からない論文を輪講で発表しなきゃいけなくなったときの空気感だ…

ここから滝が理論の理解に必死に取り組み、対抗策を世界中の学者と考えるシーンを見て、私は涙ぐんでいた。

ウルトラマンを見なくなってから現実のいろんなことを学んだ。現実にはウルトラマンはいないし(それは知ってたけど)、人生はドラマチックではないし、世界は思ってたよりもずっと複雑だ。自分のことだったら適当に笑って誤魔化せば良くても、世界に対する悲しみばかりはどうしようもない。世界をいい方向にしていくぞ!と思って学問をやっても世の中は思ったよりも分からない事だらけで、俺に出来る事はずっとずっと少ない。だから、大人になると祈ることが増えた。

そんな「年齢ばかり高くなった」若者に対して、それでも手を動かそうと強く語りかけてくれるのがシン・ウルトラマンという映画だったように思う。VRゴーグルを被り、バーチャル学会を開きながら拙い英語で討論(英語なんて拙くてええ!話し合うことが何より大事や!)をしている滝を見ながら、「案外、こういう地味なところから大きな発明が生まれるのかもな」みたいなセリフを田村君男が言ってたシーンがこの映画で一番ジーンとした。

そういえば俺も子供の頃、ウルトラマンを見て一番印象に残ってるのはそういった人間がウルトラマンの力に頼らず、自分たちの足でもう一度歩き出すシーンがとても好きだった。 タロウの最終回とか、おゝとりゲンが旅に出るところとか。

そして、導き出した答えもかつて変身シーンのサンプリングじゃん!!そんなんぶち上がっちゃうだろ!

ゼットンを無事に倒したウルトラマンはよく分からない空間で吸引力と戦うことになる。インターステラーでもこんなシーンあったな。

それを乗り越えて、ゾーフィーと対話し、人間は分からないと言いつつ、それでも向き合うことを選び、自分の命を神永にあげようとするとウルトラマン(一番大事なことが分かってるじゃん…お前…)に「そんなに人間のことが好きになったのか」と言い、彼の願いを叶えようとする。

そして、禍特対の皆に囲まれて目を覚ます神永。ウルトラマンは命を分けて消えたんかなーと思ったが、ウルトラマンと合体して以降の神永しか知らない浅見弘子が「おかえりなさい」と言って映画は幕を閉じる。ウルトラマンが帰ってきた。そんな余韻を残したのだ。原作でも赤い風船連れてきたし。ゾーフィー、そういうことだよな?頼むぞ!

この映画は下からのカットと正面からのカットを繰り返し分けて使ってたけど、初見だとよくわかってないところあるからそこも後で確認したいな。

エンディングでは米津玄師の歌が流れる。ずっとスタッフクレジットを見ていたので、あまり記憶がないがいい感じだったと思う。 そういえばさっきlemonのPVを見てたら米津玄師がウルトラマンの手をしてるではないか。伏線は数年前から張られていたのだ。米津玄師、恐れ入ったぜ!

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色々書いたけど、シン・ウルトラマンは「年齢の高い」若者に対する映画のように思う。脚本を書いてる庵野さんはエヴァンゲリオンといい、最近はそういった現実の中で生きることに対する答えを出そうとしているように思う。エヴァンゲリオンの方はフィクション/メタフィクションという20年前と同じノリをやっていて少しウンザリしたけど。

シン・ウルトラマンはきっとそれほど売れないだろう。いや、バカ売れするだろうけど、シン・ゴジラほどのムーブメントは生まれないだろう。だって冷静に考えて全身赤白タイツの巨人がヒーローとして求心力を持てるほど、今はコンテンツが少ない時代ではない。かっこよくて可愛いヒーローはいくらでもいるのが今の時代だ。 円谷プロダクションもインターネットが上手いわけではなく、このタイミングだし、歴代のウルトラマンOPでも公開してるだろと思ってYouTubeを見たらイリーガルアップロードものしかなかった。名シーンで言葉遊びしてひげ剃りとコラボしてる場合ちゃうねんぞ。

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インターネットでの流行りもせいぜい、一回見たオタクが山本耕史演じるメフィラスのモノマネをしてミームとして消費するぐらいだろう。(オタクは大体の場合において恥知らずだ。私はダサいことはしたくないが、いつ同じことをしてしまうか分からない。精進。)

それでも、私はこの映画が好きだ。全く違う生き物がどうにかして手を取り合いながら道を模索し、たとえ、世界がいくら複雑で現実がいくら困難でもそれでも互いに信頼ししながら手を動かして答えを探す。 それは巷で歌われているなんだか「愛」ってやつがえらく長もちする安っぽいものになってしまった現代で唯一できるラブソングなのだ。 そして、それはあの日、上海の家で見たウルトラマンが教えてくれたはずで記憶が摩耗していく中で忘れていたものだ。あの日の友人は今でも姿を変えて私を応援していたのだ。

そんなことを思いながらちょっと涙ぐみながら帰路についた。星は一つも見えないがそれでもなんかいい気分だった。

あと最後に一つだけ。浅見弘子の巨大化シーン、そうはならんだろ。

帰り道

ちょっと涙ぐみながら自転車を回収しに行く。2時間以上停めると料金が発生するのに、なんか発生してなかったのでそのまま回収し、歌いながら家へと帰った。宇宙にきらめくエメラルドー