物語になること

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起きて

仕事をする。今日は処理をいろいろやっていた。結構忙しくなってきたかも。あと一か所火が噴出していてやべーとなった。

夕飯はビリヤニを食べた。辛すぎる!調味料間違えてない?まぁ、スパイスを楽しむみたいなところがあるからええのか…

映画

映画を見に行った。すずめの戸締り。なんだか人気なので。

今回はそんなにピンと来なかったので、事前情報はなしで見に行った。なんか扉閉めることと警報が鳴るから気を付けないといけない事ぐらいかな。

正直に言うとよく分からなかった。

開始早々にきれいな風景画が来て、新海誠氏の映画だ…!と思っていたのもつかの間、女の喘ぎ声を延々聞かされて失神した。瓜田純士氏の映画批評があったのでチラッと読んだとき、最初の女の声が無理だったと書いてあって「そんなまたまた…」と一通り笑ったが、俺もだめだった。すまん、許せ。

それから先もフーンと思いながらずっと見ていて、フーンと思いながら映画が終わった。 映画が終わった時、これで終わり…?と思って、しばらく立てなかったんだけど、後ろの方にいた陽キャっぽいお兄さんが「長くね…?」って言ってて「まぁ、盛り上がれないには長かったよな」と思って区切りをつけられたので劇場を後にした。ありがとう、後ろの方にいたお兄さん。

この映画がどんな映画だったのかと正直困る。巷では「災害映画」と分類されるらしいけどどうもしっくりこない。その原因を考えてみたんだけど、やっぱり作品で展開されている話がバラバラなのに最後だけキレイに締められたからというのが答えだと思う。

まず、この映画の中で出てくる話は以下の三つによって構成される。

  1. 主人公の成長物語(死ぬのが怖くないと言っていた主人公が死にたくないといえるまでの物語)
  2. 草太との⎳ℴ ⎷ ℯ
  3. 災害によって失われた場所を想う「戸締り」

この三つのお話が並行したり、追従したりして展開されているのに、最後は複雑骨折して話としてまとまっていないのがすごく引っかかった。

そもそも「災害映画」なのか?というところも僕は疑問だった。最初から振り返ってみる。

この映画はひょんなことから地震を未然に防ぐ草太の仕事を手伝うことになったすずめが日本列島を北上しながら、その中で、人と出会ったり、恋愛したりしながら扉を閉じていくお話だ。これが3. の内容で僕は「なるほどねー」と思いながら見ていたが3. それ自体と災害を防ぐことがあまりピンとこなかった。

つまり、災害を忘れないこととそれを防ぐということを直線で結び付けるにはあまりに要素が不十分だなと思った。

例えば、すずめが「戸締り」をする度に、その場所にいた人々の生活を一瞬見ているけれど、現在のそこに住まう人たちは何かを思い出しているわけじゃないし、彼らがそれを思い出すことに意味を持っていない。なんか騒がしいねーとか遊園地光ったねーがいいところだ。

加えて、2つ目に訪れた場所である遊園地はそもそも災害とは無関係な場所で、話とも特につながっていない。

例えば、これが「現代を生きる我々が災害を忘れていったために後ろ扉からなんか…黒いオーラ(悪いエネルギーみたいな感じ)が出て町が大変なことになった。なので、すずめ達が扉を閉める過程で人々が改めて災害の記憶と向き合い、戸締りを行う」みたいな話だったら、「確かに失ったものと向き合うって大事だよな!」みたいな納得があるが、それにしてはあまりに過去と向き合っていないので、かなり首をかしげてしまった。

そして、これが映画全体のモヤっとしたラストにつながっている。1. と3. が衝突しているのだ。

映画全体としてのメッセージは「なかったことにしない、忘れない、それでも人は前に進める」というポジティブでストレートなメッセージだったし、災害の話と絡めながらこれをしっかり出してきたのはとても良かったんだけど、でも、主人公たちは各地を訪れては起こりえたであろう地震を未然に「なかったこと」にしている。そして、そこに住まう人々も過去の災害と向き合うこともなく、「忘れたまま」、いつも通りの暮らしを続けていってる。

あそこのシーンで本当に必要だったのは、各地を訪れて災害によって失われた場所や時間を悼む人々と交流する中ですずめ自身が何かを学び、それをラストシーンに結びつけるべきではなかったのだろうか。

僕は映画を見てる最中、「ラストシーンでの回想は現地で出会った人々や場所の記憶に加えて草太とか思い出すんだろうなー」とぼんやり考えていたが、実際の回想に出てきたのは草太だけだった。そんなことある?

人々と交流し、世界とインタラクションを取る中で「死ぬのは怖くない!」と言っていたすずめが「生きたい」と願えるようになる。自分自身の力で明るい方向へ向かっていく。そういう風にして彼女が成長していく話だと思っていたのに、この映画は突然、2. の「草太さんのいない世界のほうが~」という方向に舵を切られてしまい、映画の前半パートが丸々抜けてしまっている。なんでロマンティックラブの話になってるんですか…?じゃあ、ダイジンは何だったんだよとか人々の交流パートは?みたいな疑問もどんどん出てしまう。

だから、メッセージはすごく良いのに「なかった事にしないと言いつつ、災害を未然になかったことにしてるし、忘れないといいつつ、そもそも忘れたままだったり、過去と向き合う時間はとてもあっさり終わるし、それでも人は前に進めるというにはあまりに恋愛の要素が強すぎる」というのが正直な感想だった。

後、恋愛でピンと来なかったところもついでに書いてしまうと、全くFALLING in ⎳ℴ ⎷ ℯに至るプロセス(heart)が分からなかった。

まず、道端で出会った男に運命を感じて強烈にひかれるところはまだ何とか分かる。でも、そこから彼が向かった場所に行き、事件に巻き込まれてそのまま愛媛行きのフェリーまで飛び乗るところまで全然ピンと来ない。何がそうさせるんだ…?

これはすずめが子供のころに震災を経験して生き方に対する考え方が違う事に起因しているというのが物語の中で少しずつ提示されていってるが、あまりに説明がないのでひたすら「???」となってしまっている。

そもそも草太は椅子になっているし、すずめの独白があるわけでもないから椅子に真剣になっている女の気持ちも全然ぴんと来ない。なんなら途中から草太は物語からフェードアウトするし…どうなってるんだよ…

もちろん、気に入ってるシーンもある。いつも、優しかった環さんが一度だけ見せたどす黒い感情のところはドキッとしたし、後は細かい描写(緊急地震速報が流れたときにおそらく、東日本大震災の影響をあまり受けていない同級生の中で一人だけ反応の違うすずめなど)は本当に上手いなと思っている。

でも、話の一つ一つが散らかっているのに、なんだか良い感じに締められてちょっと居心地が悪い。災害に向き合うってそういうことだっけ?なくなったものと向き合うのってそれでいいのか?という気持ちになるのだ。もちろん、難しいテーマだし、映画ってエンタメ(ましてや新海誠は求められているものが昔の比じゃないことも)だから何かしら綺麗に締める必要があるというのも分かっている。だからこそ、抱いた違和感を「なかった事」にしたくないのだ。

その他いろいろ

災害と向き合うこと

これ難しいよね。どうすればいいんだろう。この映画では「なんかいい人と交流しました」という感じになっているし、過去の暮らしをちらっと見るだけにとどまっている。なんか不十分な気がするけど、じゃあ、「死んだ人間の霊の代表と対話する」みたいにしたらそっちのほうが業が深いだろとも思う。

実在の災害を物語にすること

これも難しい… もちろん、その災害で被害を被った人々への配慮は必要だと思うけど、僕は物語にすることに対しては肯定的な立場にある。

太平洋戦争は映画になった。ベトナム戦争や関東大震災、ハドソン川の奇跡、アメリカンスナイパーだって全部歴史の出来事は映画になっていった。というか、全ての出来事は物語になることに抗えないので、それなら物語になっていく中で我々がその過去の出来事とどう向き合っていくか、考えていくべきなんじゃないかと思う。

昔は「人生は物語じゃない」というスタンスをとっていたけれど、今は「人生は物語で物語こそすべてだ」という立場にいる。

もちろん、時間が経過し、物語に消化していく中で過度の誇張や美化も発生すると思う。 だからこそ、そんな描写があった時に、我々が目を見開いて「そんなことじゃなかった」みたいに突っ込みをいれるべきかもしれない。

じゃあ、そんな時代にあって我々が時間の経過にどう抗うか。誰が何を言って、何を言わなかったのか目を見開いて覚えておくにはどうすればいいか。それはもう日記を書くしかないんじゃないかな。

最後に

芹澤へ、俺の周りならタバコ吸ってもいいよ。煙は嫌いなので距離とるけど

帰り道

駐輪の精算機に映画館でもらえるチケットを入れる。これで、数時間は無料になるらしいが、200円が100円になった。映画が三時間で終わっても、映画施設での滞在時間は普通に三時間を超えるという問題がある。ご飯食べるし…

帰り道にFF内検索して、皆が思ったよりこの映画を絶賛しているのを見て「また皆と同じ気持ちになれなかったのか…」としょぼしょぼしながら自転車を漕いだ。「えらばれし子供たちの密話」を歌ってたら家に着いた。