花は続く

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今日は名取さなのお誕生日ライブイベント「さなのばくたん。 -ハロー・マイ・バースデイ-」の日だった。毎年この日の日記をどう書こうか迷う。 今までもこんな感じで書いてるけれど、今年はどう書けばよいか、書くほどの熱量がまだ残っているのか。それこそnoteとかにすでに書いている人たちがいるからもう、俺が言及しなくても良いんじゃないか。そういうことばかり考えて筆が頻繁に止まる。

思えば、この日記もそろそろ4年目になる。違国日記を読んでつけ始め、なんとなく今日まで続いている。日記に限らないことだが私よりずっとずっと書くのが上手かった人たちが書くのをやめてインターネットから消えていくのを見るにつけてはなぜ、私は続けていられるのだろうかとふと思う。習慣も趣味もずっと続いている。皆辞めていってしまったけれど。

それは単純に私に「何かを続けられる才能」があるのではなく、「何かをやめられない才能」があるということなのだろう。

これは私個人に限ったことではない。続けるというのはある一面でいえば、簡単だ。そういったポーズを取り続け、時折ちょろっとやれば注目されるし、価値が出る。

そういったふうに考えると何かを始めることよりも続けることよりも終わらせることのほうがずっと難しいなと思った。

そんなことを考えながら今日を迎える。

起きて

2日前までは小説の締め切りがあり、体バキバキになるぐらい書いていたので、それに比べると幾分リラックスして起きることができた。

それとは別にこの日が来るのを内心恐れていた自分がいた。贈った花はちゃんと届いたのだろうか(当日朝になってようやく確認できた)、CDのサンプル画像はなぜこちらをじっと見ているのか(なぜ、右下が隠されているのか)、自分はどういう気持ちで出席すればよいのか、まだせんせえの末席に座れるのか。そんなことをずっと考えていた。

この一年は全くせんせえらしいことはしていなかった。一年の主な動きとしては大学院を卒業し、川崎に越して初めての一人暮らしをしつつ、労働者になってわちゃわちゃしているというところだろうか。VTuberはほとんど見なくなった。代わりに料理のお兄さんの動画を見て自炊を始めた。せいぜい、配信を見ていたのはハリーポッターのゲームをやっていたのと、レッツゴーで踊りだすショートを見て笑ってたぐらいだろうか。

ここら辺の変化については昨年も触れている通り、私は私の生活にコミットをするようになったので、少しずつこれらの文化圏から離れていくのはあらかじめ想定していたし、その通りに進んでいることに驚きこそないが、3月7日という日が来る度に遠のいていく距離を確認し、その遠さに改めて驚いてしまうのだ。

労働

わっかんねー。実装をガチャガチャする。多分、動きます!と大きな声を出しつつテストが通らない度に踊る。 俺の実装には問題ないんだけど、ほかの人と実装をがっちゃんこするときに色々問題が出てる。まぁ、何とかなるでしょ。

お昼

ご飯を食べるついでにチネチッタを視察する。

street

普段よりはるかに人が多く、本当にイベントの当日なんだなと思った。皆、黒い名取さなパーカーや名取さなTシャツを着ている。

私はそういったところでもすでに温度感を共有できず、事実、名取さなパーカーは実家の押し入れに入っている。

元来、こういったオフラインイベントにオタクパーカーを着るのはダサいといった意見があるが私はそうは思わない。ファッションはその人の暮らしの営みが反映されているから、そこに嘘があるとダサくなる。岡部倫太郎がジャケットを着て漆原るかとデートに行った時、周りからボロクソ言われてたし本人たちもしっくり来なかったように。 だから、デートに行く岡部倫太郎はジャケットよりも白衣を着るべきだし、ちょっと白衣がヨレヨレならアイロンはかけたほうが良いのだ。 それと同じく、俺たちオタクは名取さなパーカーで良い。そこには嘘はないから。

道の端のほうに名取さなパーカーを着た不安げな顔を浮かべているオタクがいたので、「お前は岡部倫太郎だろ!」と肩をバシバシ叩きながら激励したら通報された。

お昼ご飯はなんかニンニク専門店で食べた。なんか、でかい肉。ニンニク専門店ということもあってニンニクの香りがよい気がする。 美味しかった。

lunch

ご飯を食べて家へ戻る。途中でもう一度チネチッタに寄る。

やはり、せんせえはたくさんいるな。今は物販に並び初めに行ったから少し減ったけれど。

「なれ合い禁止」というのは大本営から日々言われていることだが、数多くのせんせえ達がもちゃもちゃしゃべっていたり、スマホに映るアカウントを見せて相互のフォロワーとオフ会をしている様子が見える。

インターネットの時代ということもあって、今や興味ないものは画面から除いて(主語は私であったり、ターゲティング広告だったりする)、自分の興味のあるものだけを見ている時代でありながらイベントでは人と交流したりしているのをよく見かける。そういうのを踏まえると、今は自分の見たいものだけを見ると同時に同じものを見ている誰かを探しているという時代なのかもしれないなと思った。去年もそんなことを思っていた。

私の場合は通っているタイムラインにせんせえがあまりいないので、そういったこととは無縁になってしまっているけれど。

会場へ

仕事を一段落させて、早めに退勤し、チネチッタへ向かった。 物販コーナーではCDだけ買った。例年の傾向を見て売り切れないだろうと思っていたので、会場に入る一時間ぐらい前に行ったが、ちゃんとあって良かった。

本当に人が多く、ビビりながら入場する。入場口に入り、チケットを見せて、エスカレーターを上った先が会場で、いうなればさなちゃんねる王国だった。

先月の頭ぐらいから今年も用意するぞーと思って計画していたのだけれど、毎年のごとく、デザインをどうすればいいのか、まったくアイデアが浮かばなかった。昨年贈ったのは以前、配信で作っていたケーキをモチーフにしたものだが、今年はどうすれば良いのかウンウン唸ってしまった。

花を用意するのはすごいことだ。フラワーデザイナーにどんな花を贈るか、相談し、自分が何を考え、何を伝えたいのか形として具体化させる必要がある。贈る相手と自分はどういう関係なのか、この一年何があったのか、何を込めるべきか。そういった具合に積み上げてきた過去の歴史のその総体が試されており、私はそれに向き合う必要があるのだ。そんなことを考えながらずっと唸っていた。

だから、毎年、会場に花を贈っている人はマジにすごい。フラスタ企画を立てて皆の思いを背負いながら花を贈る人も、個人で花のデザインを考え、一対一で真剣に向き合っている人も。

結局いろいろ考えた結果、以前配信で作っていたケーキをモチーフとした花を贈ることにした。デザインについては赤いハートを作ったり、ピンクを基調にしたケーキのデザインを依頼をした。フラワーデザイナーは偉大な存在だ。突然、Virtual YouTuberなる存在に花を贈りたいと言い出す謎の成人男性が現れてもその要望を適切にヒアリングし、花に仕上げることができるのだ。毎日、パソコンカタカタしている場合ではないなと思った。

花でそういえば思い出したことがある。去年、京都旅行に行ったとき、源氏物語ミュージアム近くでヒカルゲンジという花の説明パネルを見かけた。この花に名前を付けた人は相当に自信があったのだろう。日本で最も有名な古典に登場する見目麗しい人物の名前を付けたのだから。

その時は開花時期ではなかったので、花それ自体を見ることはできなかったけれど、1000年前のフィクションの登場人物が花の名前になって生き続けているというのは何だかとても良いなと思った。委員長の1000年生きてるもそうだけど、1000年前の人間が生きて今に繋がっているんだから、本当に1000年生きられるかもねと思える。フィクションのキャラクターも、名取さなも、フォロイー君も。

ここまで書いて疲れてきた。頭に1000年後と音楽を頭に入力したら3020が出てくる。何も考えずに書いているからこのように脱線するが、それは別としてとても良い歌だ。2020年は散々な年だったが、この曲を2020年に聞けたのは数少ない良いことだったように思える。

「俺のこの音楽は千年は余裕で壊れない。」

そういうわけで、フラワーデザイナーの方にヒカルゲンジをのせることはできるかという相談もさせてもらった。

真っ当な意見だと思う。突然、オタクがVTuberについて説明してきたと思いきや、まだ咲いていないツバキの花が載せられるか聞いてきたのだ。大変、お騒がせしました。

結局、この花を贈ることはなかったがそれでも書いておこうと思い、ここまで書いた。日記は何を美しいと思い、何を思ったのか書く場所なので。

そして、当日に話は戻る。贈った花はエスカレータを上った先の右手、去年と同じ位置に置かれていた。自分の花を見つけるというのは、会場を練り歩いて探さないといけないものかと思っていたが、まるでここが帰る場所だといわんばかりの場所に置かれていた。今年も一年越しに花が帰ってきている。

会場には他にも色んな花が置かれていたが、私はずっと自分が贈った花を見ていた。写真を撮る列に何度も並び、グルグル見ていた。すでに当日の朝にサンプルの写真を送ってもらっていたが、生で見た時の衝撃のほうがずっと大きかった。ピンクをベースとした花で形はケーキをモチーフとしており、それでいて、側面にはハートの模様が作られている。どれも私の依頼通りのものだった。 おまけに台にはラッピングまでなされている。これは本当にすごい仕事だぜ…

いろんな角度から見つつ、それこそ顔を近づけすぎて周囲に不審がられもしたが、生で見たほうが色合いの繊細さにビビるなとか近くで見ると驚くほど精巧だなみたいな発見がある。

昔見た「世界で一番ゴッホを描いた男」の主人公が初めて生のゴッホの絵を見たとき、「色が違うな」と一言だけ言ってジッと絵を観察していたシーンを思い出した。彼もこんな気持ちだったのだろうか。

これも毎年悩むことだけれど、ネームプレートには自分の名前を載せた。本当は「せんせえより」でも良かったんだけど、何かを愛するということは愛されたり、愛されないかもしれないという事実と向き合うことだと思っているので、名前を載せている。 言ってしまえば、愛することは誰にでも出来る事(宇宙を半分消したサノスでもできますからね)であるけれど、相手から返される視線を受け入れるのはそこそこ覚悟が必要だし、私はすでにそれを匿名をクッションにして隠す季節ではなくなっている。 それに、一方的に与えるだけ与えるというのもそれは卑怯な気がしたので。

と偉そうなことを言ったが、毎年会場で顔を真っ赤にしているのはここだけの話だ。マスクがあって良かったー!

他にも色々な綺麗な花があったが、グルっと見て来年用の参考のために簡単に写真を撮り、スクリーン12へと足早に向かった。どの花もとてもきれいでたくさんのPassionが込められていたが、私にとっては自分がどんな花を準備し、贈るかということだけを考えていたし、見ていたのであまり比べることも見て回る必要もなかった。彼らには彼らのPassionがあり、私には私のPassionがある。ただ、色んな人のPassionに包まれた空間というのはとても居心地が良いものだなと思った。

開演前

開演まではCMを見ている。昨年のステージ制作に関するエンジニアたちのお話を聞くのが実は好きだったりする。ステージへの力の入れ方であったり、ライティング、レイトレーシング(しているんだろうか?)、役者の動きに合わせた照明の各種セッティングの切り替えなどの話を聞くのは面白い。同じエンジニアではあるが、私は専ら金と未来の利便性にしかならないものを作っているが、彼らは感情を動かすためのものを作っているので、フォーカスするところって全然違うなという具合に素朴に感心していた。

開演

今年のお誕生日会も最高純度のピンクだった。

live1
live2

毎年、名取さなのライブには当選して全て現地で見ているのだが、ダンスの動きのキレが良くなっているし、ステージングも格段に華やかになっている。昨年のライブでは音が途中途切れる問題があったが、今年はその問題がほとんど起きていなかった。インフラなどを担当したバックエンジニアの偉大さに頭が下がらない。

また、ライブの画面にもいろいろ発見がある。

これは毎年そうであるが、名取さなのライブではカメラが動くことはなく、常に定点から撮影され、後ろのスクリーンに顔のアップが大きく映し出される。開演前のCMにて制作スタッフが「バーチャルだから何でも出来るけれど、だからこそ現実に近づけることで会場とステージがつながるような空間にしたい」みたいな話をしていて、なるほどこれがそれなのかと思わされた。

例えば、下のパラレルサーチライトの動画ではカメラが縦横無尽に空間を動いているが、実際のライブでは定点でずっと同じ位置から見ている。この画角にすることで、まさしく目の前にステージがあってそこで名取さなが躍っているように見え、ぐっと臨場感が上がる。バーチャルとリアルを繋げるってこういうことかと見ながら思った。毎年ライブを見ていても発見というのはあるのだなと素朴に感動していた。

今年のお誕生日はミュージカル調で進んでいった。名取さなが色んな自分(王様であったり、キョンシーであったり、学生であったり)と向き合い、その悩みを解決しながら歌を届けていくという順序で進んでいった。

私は歌を歌っている間、ずっと手を叩いていた。ぴかぴか光る棒は持っていなかった。

live3

手を叩くというのは自分で言うのもなんだが、空虚な行為だった。名取さなは画面越しに各スクリーンを確認できるが、各スクリーンではライブ音が爆音で流れているので、そこで発されている音を聞くことはできないだろう。

元より、VTuberとリスナーの見る・見られる関係や見せる・見せられる関係は決して対称的な構造になっていないのは私が言うまでもないことであり、そういう意味では手を叩く行為は相手に伝わりようのないエールであった。

そういった空虚さで人と繋がろうとするのは空ろで虚しい行為ではあるけれど、それでも私は手を叩いていたかった。私と彼女の間にある空虚で、届くかどうか分からなくても、それでもなお、手を伸ばそうとする行為こそが私たちをつなぐ一番強いつながりであり、絆であり、それこそもっとも愛に近いものと言えるのではないかと。そう思いながら手を叩いていた。

昨年の日記にも手をたたく事について書いていたな。去年の自分と比べても随分、違う印象を受ける。きっと私は自分が知らない間にも違う人になり、書く文章も思うことも変わっていくのだろう。だからこそ、ここに今日感じたことを記しておきたいのだ。

写真撮影OKなので、邪魔にならない程度に少し写真を撮っていた。写真を撮っても仕方がないことで、公式からのキャプションや当日の会場の様子の写真のほうがずっときれいだが、私は自分の見た風景を記憶に残したくて写真を撮っている。

もちろん、記憶の中に焼き付けるといった姿勢は美しいが、形のないものは忘れられていくし、形のあるものは壊れてしまう。事実、私は一年の間に自分の書く文章ですら気づかない間に違うものになっているのだ。あの日見た風景をずっと記憶に留められるなんて自信はないからこうやって写真を撮り、年月の経過に対して抗っている。

live4

さて、色々書いたが、今年の誕生日ライブで言及をされて通れないのはラストに出てくる患者の名取さなの話だろう。私はそこに触れるのかとかなりドキッとしてしまった。いつか来るかもしれない日が本当に来た。 ステージのライトは彼女本人を当てるもの以外はすべて落とされ、独白が始まる。 この時の会場の緊張感は異様なもので具体的には全員静まり返っていたし、前のほうにいた特に意味のないタイミングでピカピカ棒を振っている人もこの時ばかりは完全に黙っていたぐらいだ。

メタっぽい視点からぶっちゃけて言うと、名取さなが過去の自分と向き合う事はコンテンツを作るうえで決して必要というものではなかった。今の時代のコンテンツというのは、楽しく進行している画面や紙面の上の一か所に不穏の種を撒くことで、直接的には世界の歪さから目を背けられるようにしつつ、インターネットで人々が考察と称してあーだこーだ言える土壌を作っているコンテンツが注目を浴びている。それがコンテンツとしてどうであるかということではなく、少なくともそれが今の時代の流れであり、メインストリームなのだ。

そういう意味では名取さなが過去の自分と向き合うのをずっと先延ばしにすることもできた。けれども、今回のお誕生日会では彼女は自分自身と向き合ったのだ。本当の名取さなは患者であり、ナースではなく、今まで皆を欺いていたのだという告白を。

ちょうど冒頭にも書いていた通り、何かを終わらせるというのは続けるよりもずっとずっと難しいことだ。だからこそ、彼女が今日、色んな自分に支えられながら改めて自分と向き合い、本当の自分を受け入れながら、もう一度歩き始めるその瞬間を迎えた事がとても嬉しい。これまでの物語に区切りをつけるために、過去の自分と向き合い、そして新しく進める。その帰還が他ならぬ彼女自身の決断ならば、その一瞬に帰ってこれたことこそ、喜びべきなのだと私は思う。成し遂げたのですね…

私個人としては偽物だとしても5年もの間ずっとナースを目指し、それを真似して今日まで実践してきたのならあなたは間違いなく、もう本物のナースなのだと思う。ちょうど外の扉にプリンセス・プリンシパルの広告があったのでそのことを思い出した。

princess

最後の曲である「ゆびきりをつたえて」が終わった直後は本当に会場が静まり返って誰も動いていなかった。皆余韻に圧倒されているようだ。他ならぬ私もそうだった。あの日の会場の空気感を今でも覚えている。

そこからは係員の誘導に従い、順に解散した。時折、手ぶらの人間が「新幹線あるので!」つって飛び出しててウケてしまった。手ぶらで新幹線に…?

終わりにあたって

周りの反応は分からないが、私は彼女が成し遂げた姿を見て、とても晴れやかな気持ちだった。

スクリーンの外に涙ぐんでいるオタクの姿をちらほら見かける。その様子を見ながらいわゆるせんせえ達とは同じ温度感を維持するのはできそうにないなと思った。

社会人になってから生活もライフスタイルも自分自身も想像以上に変化した。インターネットを見る機会はめっきり減ったし、見てどうこうという事もなくなった。代わりに料理をして本を読んで過ごすようになった。

人生の踏切のレバーを倒した今、この変化を止めるつもりはない。けれども、名取さなが過ごす丁寧なインターネット生活とは確実に乖離していくんだろうなという実感だけはあり、3月7日を迎える度にその距離に素朴にビビってしまう。 実際にイベント前の情報も確認できていなかったし、最近の配信由来の色々も知らない。

これからも名取さなの動画を見る時間がぐっと増えることはないだろう。きっと料理のお兄さんの動画を見ながら料理をしている時間のほうが長い。

けれども、去年と同じようにこれで良いのだと確信を持っている。彼女は自分自身の過去に決着をつけて先に進めていく事が出来たし、私も同じようにこの日常を続けていく。やり方もやることも違うが、確実に明るい方へ進んでいるのだ。彼女のサーチライトは確かに届いているし、そして私のサーチライトもちゃんと彼女を見つけることができる。 だからきっと大丈夫なのだと思う。

そういえば、花を贈る際にメッセージカードを書いた。去年はまずそういうサービスがあることを知らなくて適当に埋めてしまったが、今年はうんうん唸りながら文章を書いてフラワーデザイナーに渡した。何を書いたかは私しか知らなくてよい秘密だ。

今思えば、名取さなじゃなきゃいけなかった理由はなかったのかもしれない。他にもいろんなコンテンツがある時代だから、ちょっと違う世界があったら、私は別のものを見ていたのかもしれない。こんな性格だから、名取さながいなかったとしても、私は楽しく過ごせていただろうけれど、それでも、名取さながいたから嬉しかったのだと思う。

もし、運命というものがあり、運命の相手がこの世のどこかに存在して名取さなじゃなかったとしてもそれでも、私は名取さなを選ぶだろう。運命の人を探すのは古い。これからは運命の人じゃないかもしれないけど、それでもあなたを選ぶ時代。

会場をもう少しうろうろし、自分の花を見て会場を後にした。花も続いて、また来年帰ってくる。もしかするとずっとずっと続くかもしれない。光源氏も花になって1000年生きているんだ。きっといけちゃうだろ。

家へ

近場でフォロワーと合流し、アー写を撮って貰いつつ、混ぜそばを食べに行った。

大盛だったが、思いのほか食べることができ、自分がかなりくたくたになっていることに気づいた。

dinner

駅で別れた後、スーパーに寄る。牛乳だけ買うつもりだったが、フルーツの盛り合わせが半額だったので買った。

家に帰り、インターネットを覗く。みんないろんなことを言っていたが、あまり興味はなかったので閉じた。

何というか、我々はお誕生日に参加してそのライブを見たのであって、別に8000円のチケット払って如何に物語の構造に機敏に反応し、読み取れたかを競い合うわけではない。文脈の外にもステージングや新しい試みはいくらもあり、そういったものを見てそれをイイねと思えばよいし、別に上手い事をネットに書く必要もない。

歯を磨き、布団を敷いて床に就く。枕元に差し込む月明かりが気になった。外を見ると満月だった。私のマンションだとある程度、月の高度が低くないとベランダにさえぎられて月光が部屋に届かない。一年の間で月の高度が変動することを思い出し、季節の移り変わりを感じる。 実家に住んでいた頃は月の光の差し込まない部屋で生活していたので新鮮だった。

川崎に越してきてから一年が経とうとしている。まだまだ知らない街だけれど、チネチッタが近くて、枕元に月の光が差し込むところは気に入っている。 月の光のもと、遠い王国の王様の玉座の片隅で今日も眠る。